<2023年1月25日(水)>
自宅近所の小学校グラウンドの丸太ベンチに足を引っ掛けて転倒、胸とお腹を強打。息ができなくなるぐらい痛かった。スネから流血、お風呂に入るとしみる。
<翌日1月26日(木)>
胸と足に痛みはあるものの、一日やり過ごす。
<翌々日1月27日(金)>
胸の痛みが強まる。呼吸や、笑うと強い痛みで、車の振動も胸に響く。同僚に病院まで送ってもらう 「癒しのチャンスが来たのかも」と思い、病院の待合室から牧師先生、勝也先生に連絡。お祈りをお 願いする。
レントゲンで胸骨と腸骨を検査。「右ろっ骨骨折」の診断。肉眼でレントゲン写真を見、助骨に線が 入っているのを医師と確認。痛み止めとコルセット処方。夜も痛みがあり、薬を一錠服用。
<三日後1月28日(土)>
祈っていただいた効果だろうか、ゆうべ、寝返りするのも痛みがあったのに、朝にはだいぶ楽になっていた。しかし、笑ったり、咳をするとすこし痛みがあった。
<四日後1月29日(聖)>
痛みはほとんどなく、礼拝の証の時間に癒しの証をし、主に感謝した。
午後の活動も痛みはほとんどなく、「痛くないんです~」と周囲に話すと「神様の栄光になるから、もういちど病院に行ってレントゲンを撮ったら良い」とすすめられる。四カ月の乳児(よその子)を一時間も抱っこして平気だった。夜、洗濯物を干すために腕を伸ばすとすこし違和感があったが、それだけだった。痛みが無さすぎて、それが逆におそろしく思え、「え?神様?これ神様?どうしよう?」となって眠れなかった。
<五日後1月30日(月)>
まったく痛みがない。仕事を休めず、予約のみ入れる。
<六日後1月31日(火)>
病院へ。神様の証人として記録を残したい、牧師先生たちに確かなことを報告したいという気持ちと、「こんな奇跡、どうしよう」という、怖くて行きたくないような気持ち。同じ病院ではレントゲン検査をしてもらえない可能性もあると思い、じゅうぶん離れた別の町の整形外科を受診。
黙っていれば良かったのだろうが、「セカンドオピニオン」と言ってしまったため医師にムッとされ、喧嘩腰に「私はそちらの病院の先生も知っています。間違いがあるとは思えません。でもあなたがそこまで言うなら保険適応外ですが、撮りますか?」と言われた。「それでかまいません」とお願いする
撮影後、いつまでもレントゲン室で待機。そのうち診察室付近に看護師らが集まってきてガヤガヤと騒ぎになっているよう。
やがて医師がレントゲン室に入ってきて「どこですが?痛いところは?」「はっきり教えてください!」と喧嘩腰。「ここですか!?ここですか!?何番目なんですか!?」と骨を押さえていく。いや、すでに痛みが無いのだから私にもはっきりは分からない。「ちゃんと言ってください!ここですか!?ここですか!?」・・・
ついに診察室に戻ることができた。
「はっきりと申し上げます。助骨七、八、九番どこも、折れた箇所は確認できません。前の病院で骨折と言われたかもしれませんが、私の所では確認できません」
「それってどういうことですか?」
「知りません!」
「仕事休んだので診断書ほしいんですが」
「どこも悪くないのに書けるわけないでしょ!?どうしても書いて欲しいだったら、初めの病院で書いてもらってください。うちでは出せません!」
「はぁ。そうですか」
とレントゲン写真を眺めていると、
「いいですか?これは、とんでもない問題なんです。向こうの病院との関係もありますから、うちに来たことは言わないでください。あなたはとても厄介な問題を持ち込んだんです!」
奇跡など信じられないのだろう、前の病院の誤診という結論しか考えられないのだ。
一方、私の心の中では、神様が起こした奇跡に、指先がブルブル震え、神様を畏れる他なく、医師の声は右から左へと抜けていった。
待合室に戻り会計待ちをしていると、もう一度医師がやってくる。なにかダラダラ話しかけてきて、最後に「つまり、あなたの思った通りの結果になったと言うことです!」と捨て台詞を吐いて憤然と行ってしまった。
私は、聖書通りのこの言葉がかなり気になった。医師から出た言葉なのか、神様が医師を通して言わせたのか?
帰り道のドラッグストアで牧師先生に報告。
「折れてないって言われました・・・」
「折れてないじゃなくて、くっついたんでしょー?はっはっはー。ハレルヤー!」
その言葉に、なぜかホッとして涙が止まらなくなった。そして、なぜ今このタイミングで、他の人ではなく私に、こんな奇跡が起こったのかと考えた。というのは怪我をした時、「ケガを癒して欲しい」というより「神様をもっと信じ、信仰を強く持ちたい」と祈っていたから。
「正しい道に立ち返らせるためでしょ?」(勝也先生)
笑、相変わらず私を不良娘扱いする。まぁ、間違いない。
そうか、私はまだ信仰を持つフリをしていたのか。
では、本当に信仰を持つということはどういう事なのか。この度、私は、心底、神様の存在を認めた。認めざるをえない結果となった。そして全てを見透かしていた神様を畏れた。これが、今回一番強い感情だった。
畏れるとはどういうことか、インターネットで調べたり牧師先生のメッセージをまとめたノートを読み返したりして考えた。
1 神を畏れるとは、人知を超えた偉大な存在(人間の知識、知恵力の及ばない存在)を認めることである。
2 神を畏れるとは、自分(人間)が今存在し生きているのは自分(人間)の力だけに依らないことを認めることである。
3 生命(肉体と精神)の源と多様な生命体を支えているしくみの不思議さ(正に神秘)を、驚きと畏敬の思いをもって受けとめることである。
この経験は神様がこの感情を理解させるために、私に起こした御業なのだろうか。ならば今私は、何を考え、人生をどう歩むのか、軌道修正しなければならない岐路にあるのだと思った。
神を信じる人、そうじゃない人。他人は私のこの経験を信じたり信じなかったりするだろう。うまく証して、伝道する自信はまだないが、わたしは確かに経験した。それは確かだ。
牧師先生が「奇跡は自分の身に一度でも起こればそれで十分です」とよく言われるのを思い出す。たしかに、こんな事、何度も経験したら、思考が追いつかない。一度でパンク状態な私なのだ。不信仰だった自分には有り余る程の奇跡。有り余る程のめぐみ。
私は、神様の存在は「私の気持ちや状態に関係なく存在する」と理解した。私が「神なんかいない」と思っても、神様はおられる。
そして、「神の存在を確信できる御業は、神様のタイミングで起こる」ことも理解した。
誰がなんと言おうと、神様は存在され、「無いこと」にもできない。
何者にも替えようが無い、唯一無二。そして、私のすぐそば、あるいは私の中に存在しておられた。私は今、ただ、主を私の御主人様として畏れ、主が私の人生を共に歩んでくださっている事に感謝して、涙する他ありません。