第一聖堂(3ページ)

建った!                心配しないでください。幾多の地震や嵐を 乗り越え、46年の歳月が流れて     今も健在である。

二階・三階部分

聖壇

 

第一聖堂建設時の ある信徒による証 

ある建築会社に、わたしの同級生の建築士がいたので、設計を無料でして欲しいと頼むと、快く引き受けてくれました。しかし、市民会館建設の仕事が入って忙しくなり、別の人に頼んでくれました。がその人も忙しくなかなかはかどらず、苦労しました。自己普請でもあるし、何とか簡単な設計図(当時はそれでよかった)も出来て、建築確認が取れました

しかし、消防・市・県から道路の問題でその場所に建物を建ててはいけないと言われました。その夜の集会で、牧師先生が神様を崇め讃えましょうと言われ、心を合わせて死に物狂いで神様を讃美しました。あくる朝、牧師先生がもう一度市役所に出向いたところ、何と許可が出たのです!!主は私たちの思いを聞き届けて下さり大いに感謝しました。

しかし、資金がありません。主は私にも勇気と知恵を与えて下さり「教会は市民のためのもの、寄付をお願いしたらどうでしょうか」と牧師先生に相談したら、「良い」とのことで、早速芳名録を購入し、お店や会社を回りました。ほとんど快く寄付をして下さいました。一巡し、他に何か無いかと思っていたら、牧師先生を通して爪切りを販売する話が持ち上がり、それを売りに回りました。一番売れたのは産業通りの会社だったように思います。また、敦子先生はリッカーミシンの集金をされ、牧師先生はダスターの特約店を開き、多くの収入を得て全てを献げられました。しかもその間牧師先生は無給を通されたのです!家族五人で!15ヶ月間も!

はじめは、雨露が凌げればよいと思っていましたが、三階建のとても立派な建物になって行きました。牧師先生のご両親や、また、ある教会の牧師先生が祈っていたら示されたといわれ大金を持ってこられたり、敦子先生が街なかで、以前教会に来ていた人に出会うと、多額の献金を渡されたりして、支払いが必要なときに、いろいろな人を通して満たされ聖堂建設は進められていきました。故事の如く、主の山に備えあり!聖堂が完成した時は、内外とも高級建材使用で、冷暖房完備、セントラルヒーティング、音響設備の有る日本でも一番進んだ教会と、多くの著名な牧師先生が驚くほどの聖堂となりました。

建築の監督は牧師先生。棟梁は教会の若い一人の大工さん・人夫は私たち教会員でした。鉄筋加工や仮枠、コンクリート打ち、配管等々。詳細な設計図面書きは牧師先生と私でしました。

竣工間際になった時、消防、市、県の役人がドヤドヤ怒鳴りながらやってきて「絶対建てるなと言ったのに何故建てたのか!」と言うのです。牧師先生がオロオロして、許可を出した市の担当者の方を見たら、その担当者は、くるっと背を向け、座って黙って煙草を吸い出したのです。牧師先生は、背を向けて座っている一人と、怒っている二人の間で、右を見たり左を見たり、オロオロしながら「アノ~、アノ~、エーット、アノ~」と言っている内、(アッ!そうか!ハレルヤ!主が働かれたのだ!!)と気が付いたのです。ラチがあかずブツブツ言う二人と黙っている一人の三人は、帰って行き、二度と来ませんでした!

ここで多くの人の人生が救われ、多くの神癒がなされた。
またこの建物に崔子実師、レスター・プリチャード師、榎本保郎師、小宮山林也師、カルロス・オーティーズ師、森谷勉師、万代恒夫師、西原博師、藤林邦夫師、永井明師、アーサー・ホーランド師、村上好伸師、榮義之師、神薗洋樹師、小坂忠師、等々
多くのメッセンジャーをお迎えした。


座席50客、冷暖房完備、セントラルヒーティング全館に音声を流し、              しばらく後に 三階には大型テレビを設置し    100名を収容した。