第ニ聖堂(4ページ)
第二聖堂建設時の ある信徒の証
主が祝福され、第一聖堂に溢れる人々が集うようになり、もっと広い土地に聖堂を建てようとの願いがおこされ、土地探しが始まりました。一九八三年に第二聖堂の土地が与えられました。ローンを組んだのですが、返済は計画よりもずっと早く、十ケ月で終わりました。K姉は、御自分の生活を切り詰め、風呂の回数を減らしたり、訪問伝道のバス代を浮かす為、バスに乗らずに歩いたりして、多額の献金をされました。M姉は、わずかな年金の中、別個に毎月、聖堂献金をされました。はじめは、一日も早く建物がほしいと思っていましたが、いつしか、いろいろなことで教会員も減っていき、聖堂建設の気運は薄れていきました。
土地購入から十三年。牧師先生のうちに「必要性はないが、このままではいけない。心機一転をはかり、又、忠実に献げてこられた年配の方に、生きている内に聖堂を使ってもらわねば」との思いが起こり、一日も早く建てねばと、聖堂建設へ踏み出されました。牧師先生は、八幡浜で1番美しい建物を建てようと、いろいろな建物を写真に取ったり、又、建物の本を見たりもして研究されました。
設計事務所もきまり、土地のボーリングが行なわれ、建設業者も落札し、一九九六年十二月一日、大雪の中起工式が行われました。Y先生の指導で始められたコーラス隊は、コートの上にガウンを着ての姿では、皆ふくよかなものでした。強い風でテントは大きく揺れ、物が吹き飛ばされそうになる中、コーラス隊の喜びの歌声が響きました。
第一聖堂は、教会員で建てたので、思いのまま自由に手直しをすることができ、いろいろ工夫をこらしましたが、今度は、なかなか担当建築士や現場監督との意思が通じなくて、完成までにいろいろな苦労が、牧師先生にはありました。上司には簡単に通じることが、担当の一級建築士にいくら説明しても、間違って理解され、たえずもめたのです。最終的には、間違いが数十ヶ所にも及ぶと聞きます。
聖日は工事の進行を皆で見に出かけ、ラセン階段の複雑な工事や、和室、事務室、台所、礼拝場・・・と完成して行く姿を見守りました。工事は予定よりも遅れましたが、できあがった聖堂は誰の目にも素晴らしく、美しいもので、多くの人の目に留まるものでした。
おどろきですが、遠く離れた松山の職場で一人の女性が同僚に「この間八幡浜で、ホテルか結婚式場やと思うんやけど、ものすごくきれいな建物が建ってたんよ」と話している。全く偶然なことですが、その職場に、当教会員が勤めているのです。側で色々聞いているうちに、「それ、うちの教会よ!」「ええ!」。ということさえあったのです。
一九九七年十一月二日、聖別式を迎えることができました。
主は人の思いとは異なり、第一聖堂の時も、この第二聖堂についても、沢山の信徒がいるときではなく、信徒が減っている時期に計画が進められました。土地・建物で1億5千万円の必要は必ず主が満たして下さると、牧師先生が逆境の中で唯神様を信頼し、祈り賛美された強い信仰は、私たちに生きた教訓として主から語られました。献身者である、K先生は、この為フルタイムの仕事をして、非常に多額の献金をされました。K姉や牧師先生やご親族、又、松山教区の人たち、貯金が満期になったからといって献げられた方々・・・。十五年の返済計画が三年四ケ月で完済されました。
「銀はわたしのもの、金もわたしのものと万軍の主は言われる。
この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。
この場所にわたしは平和を与える」と万軍の主は言われる。
ハガイ書 二章八・九節
建築も落成も、一切外部には通知しなかったので、他教会からは、お一人の方のお祝いを除いて、一切献金は受けていません。それだけではなく教会内でさえ献金に関しては何のアッピールや、勧めなども一切ありませんでした。建築委員会さえ組織されませんでした。ですから、祈りも献金もしない人には、何の実感も無いまま、「本当に建ててるの?」といった感じだったのです。
教会は、更に未来を目指して進んでいます。